ファイヤーマンその3・朱川審!4 歌を忘れたカナリヤ




天女のような白装束に身を包み、湖で無邪気に水を浴び、「太郎」なる恐竜を愛する、「歌を忘れたカナリヤ」を歌う他は一言も言葉を発しない、良く言えば純真無垢な、悪く言えば白痴的*1ですらある不思議な少女。
水島は彼女に恋心を抱いた。
彼女もまた老博士の孫であるが、水島にとって妹なのかイトコなのかは語られない。*2いや、むしろどういった関係なのかは問題ではない。例えそれが肉親であっても。
とにかく水島は彼女に恋心を抱いた。
先の「薔薇の光雲」からも分かるように、岸田森が至上のロマンチストであることを差し引いても、この少女から岸田森の女性観を推察するには余りにも浮世ばなれし過ぎている*3
岸田森に処女崇拝に似た思想があったのか否かは定かではないが、二度に渡る離婚について語った「女の愛し方を知らなかった」という発言がカギのような気がする。
だが少なくとも彼女が水島三郎にとってのファム・ファタール(運命の女)である事は、後述するラストシーンを見れば明らかである。

爆発した研究所から脱出するシーンにて、凶暴化した太郎を憐れむように歌う少女を見つめる水島の、切なく愛おしいまなざしは印象的だ。

水島「海野さん…」
海野「行ってやれ」
水島「はい」

水島のセリフは今回これだけである。*4
それまでひたすら黙っていた男が、愛した女を守る時に初めて口を開く。
やはりこのエピソードの主役は水島だ。セリフを多く喋らせることだけが役者を際立たせる術ではない。



老博士は死に、太郎はファイヤーマンによって宇宙へ運ばれた。
唯一生き残って病院に運ばれた少女だが、彼女もまた老博士によって作られたロボットだった…。
この切ないラストシーンは、明らかに「京都買います」を意識している。岸田森にとって、「怪奇大作戦」がいかに重要な作品だったかが窺える。
しかしこの二つのラストシーンには決定的な違いがある。
両者が断絶した瞬間、突如都会のけたたましい喧騒が覆い被されて、今まで時が止まっていたかのような「二人だけの時間」が永遠に失われた須藤美弥子との「別れ」とは対照的に、少女の歌声は水島が笛島の研究所で出会ったあの時よ永遠なれとばかりに、いつまでもリフレインされる。
ただし、それは機械仕掛けのスピーカーからだが。

歌を忘れたカナリヤは 後の山に棄てましょか
いえ いえ それはなりませぬ
歌を忘れたカナリヤは 背戸の小薮に埋めましょか
いえ いえ それはなりませぬ
歌を忘れたカナリヤは 柳の鞭でぶちましょか
いえ いえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリヤは 象牙の船に銀の櫂
月夜の海に浮かべれば  忘れた唄をおもいだす

この歌は詩人・西条八十が、生活苦のために詩人への道を挫折しそうになった自分をカナリヤになぞらえた歌だそうだ。
そういえば老博士もまた、科学者としての道を踏み外した自分は「歌を忘れたカナリヤ」だと自嘲し死んでいった。
少女がロボットであったという余りにも辛い現実。
しかし彼女の歌声は永遠だ。現に、今まさに聞こえているではないか。形だけなら、これからも「あの二人だけの時間」は永遠である。
だがそれは所詮、現実逃避にすぎない。水島がそれを選んだ瞬間、彼は老博士同様「歌を忘れたカナリヤ」になってしまうのだ。

「僕は仏像より、現実に生きる人間の方が好きかもしれない」

「京都買います」において、牧史郎が美弥子に投げかけた言葉に、今度は水島三郎が揺さぶられた形となった。
科学者として、人間として、水島は少女に試された。祖父の過ちを二度と繰り返さぬよう…。

*1:昔のドラマでは、強姦されて錯乱した女性が童謡を口ずさみながら徘徊するシーンが良く見られた。そして怪奇大作戦のお蔵入りエピソード「狂鬼人間」のラストにおける美川冴子を見ても分かるように、童謡は狂人を表現するツールでもあった。

*2:脚本ではイトコという記述がある。

*3:子供番組ゆえに分かりやすい、記号化されたキャラクターが要求されたのかもしれないが。

*4:研究所が崩壊するときに岸田森のものらしき声が聞こえるが、騒がしいシーンのため判然としない。