恐怖劇場アンバランス「木乃伊の恋」#2



前半部分のナレーションは布川…つまり、ここまでの物語は病身で寝たきりの布川による口語訳を、笙子が口述筆記していたという事なのである。
筆記が終わると布川は、今は亡き笙子の夫の話を始める。困惑する笙子。


そして布川は病に痩せ衰えた老体を引きずり、突如笙子に襲いかかる。性への執着に目覚めた定助のように。
「君の夫は生きている…定助は現実にこの世にいたのだ!定助を惑わせて成仏させなかった女が一人。それは誰だ?!」
「知りません!…からかわないで下さい」
「君に対する未練と執着が残って、死ぬにも死ねない哀れな男が一人この世に甦ってきたのだ!信じるのだよ人間の執念を、セックスの奇跡を!」
「う…嘘よ!」
「定助が甦ったように、君の夫も甦る…いや執念が人間を眠らせてくれないのだ。入定の定助は一人ではない!例えば君の夫のような、例えばこの私のような…!」
笙子のモノローグによるとこの布川もまた若い頃、幾度となく彼女に関係を迫ってきた、性に対して大胆かつ奔放な男だったらしい。



布川を演じたのは円谷作品ではおなじみの名脇役・浜村純。
帰ってきたウルトラマン」第32話「落日の決闘」などで見られた朴訥とした好々爺とは対照的な、不気味な芝居が印象に残る。
特に女中の持った尿瓶に用を足すシーンで見せる謎の笑いは圧巻。笙子はこの時「男がいる…」と呟くが、これは尿瓶から覗く布川の男性自身が反応していたという事なのだろうか?ちと分かりにくいが、だとすればこの笑いもまた定助の如き性欲の発露という事になる。





迫る布川を振り切り帰路に着く笙子だが、僅か1年余しか結ばれなかった亡き夫と夢の中で抱き合う事を日常としていた彼女にとって、今日の布川との出来事はあまりにも刺激的だった。
体と頭の火照りを抑えられない笙子の足はいつしか、夫の死んだ場所へと赴いていく。一人の定助がいるのなら、二人目の定助が甦っても不思議ではない…布川の前では否定したはずの言葉に導かれるように。
そこで笙子は一人の男と出会う。
死んだ夫に生き写しのその男と、笙子は雨の中激しく愛し合うが、サングラスを外した男の素顔は、なんと布川だった!

その直後、笙子は追いかけてきた女中から布川が亡くなった事を告げられる。
「じゃあ…誰だったの?!私を抱いたあの男は…」
そしてラストカットは、沸々と湧きあがる性欲のメタファー(?)として冒頭から度々挿入されてきた踏切の点滅信号とフラッシュバックして浮かび上がる、笙子の夫。
最後まで笙子を抱いた男は誰なのかという事を暈したまま、この不思議な物語は幕を閉じる。


ぶっちゃけ男の正体など誰でもよかったのだ、と思う。「生への執念」とはとりもなおさず「性への執念」…世の全ての男が定助となり得るのは言うに及ばず。定助の復活などという非常識な事を信じた(と言うより、望んだ)時点で、笙子は性への執着という点では定助と同類の人間である。
ナビゲーターの青島幸男は「性とは何か?仏とは何か?」を本作のテーマとして視聴者に投げ掛けていたが、ここまでくると仏教という題材じたい、性への執着を描くためのマクガフィンだと感じられてならない。
この物語は、男女問わず、時代をも問わず、人間という生き物全ての性への執着心を描いた、現代の寓話だったのだろうか…。


前述したように「恐怖劇場アンバランス」は製作から放送まで約4年のブランクがあるため、放送順にあたっては「ウルトラQ」のように改めて精査したらしい。
そんな状況の中で敢えてこれを放送第1話に選んだのも凄いが、元々ゴールデンで流すつもりだったというのも凄い。
だが塾長はこれを「昔はおおらかな時代だったなあ」の一言で済ませたくはない。セックスという下世話というか、とかく興味本位に走りがちなテーマを、恐ろしくもどこか美しい、見る者の魂を揺さぶるような映像作品に仕上げてみせた清順監督とスタッフの「志の高さ」の賜物だと思っている。


この作品を見てからあらためて清順監督が48歳年下の女性と再婚したという事実を考えると、「ああ、なるほどなあ」と妙に納得してしまう…w
以上「俺も頑張らなきゃなあ」なんて思う、気持ちは定助だけど最近カラダがどうも追いつかないコブラ塾長でしたw